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ウィニコットの言葉〜遊びについて〜

遊びやアートを通じて心理支援をする上で、大切にしている言葉があります。それは小児科医、精神科医、精神分析家ドナルド・ウッズ・ウィニコットの次の言葉です。


Donald Woods Winnicott (1896-1971)

「遊びにおいて、遊ぶことにおいてのみ、個人は、子どもでも大人でも、創造的になることができ、その全人格を使うことができるのである。そして、個人は、創造的である場合のみ、自己を発見できるのである。」

“It is in playing and only in playing that the individual child or adult is able to be creative and to use the whole personality, and it is only in being creative that the individual discovers the self.”


この言葉は、人の自己探究や創造性について考えていたぼくに、光を与えてくれた言葉です。遊びやアート活動は、心を浄化したり、心の状態を投影したりすることができ、多くの場合に言葉でのやりとりよりもかなり精密にそれを実現することができることは、経験則によって理解していました。

でも、それがなぜなのか。どのような心理的な運動によってもたらされるのかについては、ぼくにとっては厚いベールに覆われた現象でした。また、ぼくは日頃から経験則というものに注意を払っており、経験的に得られたことについては、自己批判的に(それこそ、心理実験で帰無仮説を引き合いに出すように)疑うことが習慣づいていたので、遊びやアート活動が心の「浄化しているように見える」ことや心理状態を「投影しているように見える」ことについては、利用しながらもクリティカルな態度で臨んでいました。

そのような中で、ウィニコットの前述の言葉は、まさにアハ体験をもたらすものであり、様々な経験知と理論についての記述を統合するものとなりました。ウィニコットは、人間が創造的になり得る機会を「遊ぶことにおいてのみ」(only in playing)と言い切っています。この言い切りによって、ぼくにはすべてがつながったように感じられました。

遊びもアート活動もともに半分現実、半分非現実(無意識、空想)の場であると言えます。ユングが夢を無意識との出会いの場と捉えたように、遊びが無意図的・無目的であればあるほど無意識が表れやすくなるなると考えられます。

この半現実の世界では、鬼ごっこで鬼に捕まっても、鬼に食べられることはありませんし、サッカーに負けても、人生に敗北したわけではありません。絵の中で残忍なものを表現したとしても、誰かに残忍なことをしたことにはなりません。ですが、遊びや絵の中にも様々なレベルでの制限や限界があり、どこまでも自由な場であるわけではありません。

そのような場で行われる遊びやアート活動は、「生」そのものではあるけれど、行為が直ちに現実化しないで済む、安全が保障された「生」の舞台であると言えます。ですから、人はその舞台の上であれば、自分の創造性を自由に働かせ、発現させることができ、本当の自分と出会うことができます。そのような舞台を用意することが、プレイセラピストやアートセラピストの役割であることを明確にしてくれたのがこの言葉でした。多くの偉大な心理学者や医学者などが、遊戯療法や芸術療法についての言葉を残してこの世を去っていますが、遊びの特殊性についてこれほどまで明確に語った言葉は見つかりません。

ウィニコットがこの言葉で表したかったことは、もっともっと奥深いことなのかも知れません。ですが、ぼくにとってはこのことが理解できたことで十分でした。

さて、現在、子どもも大人も遊びよりも学びや未来への備えを重要視される社会的な環境下に置かれています。このような時代になり、このウィニコットの言葉に出会ったとき、こんなメッセージが聞こえてきませんでしょうか。

「もう一度、子どもにも大人にも遊びを。」

2 thought on “ウィニコットの言葉〜遊びについて〜”

  1. 松村一生 より:

    同感です。仕事を遊んでいる時ほど生産性が高いのは、その仕事にクリエイティブな要素が加わるから、だと思います。

    1. m-lab より:

      コメントをありがとうございます。
      今は遊びに対して厳しい時代になってきているのかも知れませんね。でも実は、遊びが生産性に関係していることは、みんなが経験的に知っている。集団性によって遊びを抑え込まなければ、生産性もより高まるのかも知れませんね。

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