現在、大人も子どもも「今、ここ」”now and here”に集中する機会が与えられなくい時代の中にいます。
その背景には、2000年以降に社会全体が未来志向となり、未来に必要と思われるものが現在を決定する未来ベースの考え方が支配的になっていることがあると考えています。
教育の分野でもそれは顕著で、2000年以降、様々なセクターから様々な教育理論が提案されては次のものに置き換わるという事態が続きました。
例えば、「答えのない問いを考えさせよ」「対話的な学びをさせよ」「教えない教育をせよ」「家庭学習で学び、学校では復習をさせよ」「教科をなくしたカリキュラムをせよ」などなど、新規性が際立つ教育理論が数多く生まれ、蔦屋書店にもズラリと並びました。
それらの教育理論について、一通りは書物を辿りましたが、それらに共通していることがあります。
共通点の1つ目は、どれもエビデンスを求めず、検証プロセスがすっぽりと抜けているところです。
例えば、「答えのない問いを考えさせよ」については、こんなふうに理論づけられています。「これからの未来は予想のできない未来となるであろう。であるから、答えのない問いを考える力が必要なのだ」という驚くほど単線的な理論です。この理論で、「答えのない問い」を学校カリキュラムで教えられた子どもは、何を得て、何を失うのでしょうか。解にたどり着けない学びで、何に満足を得るのでしょうか。エビデンスに基づいた検証はされません。
「対話的な学習をせよ」は、文科省の国策にもなりましたが、文科省の委員会文書などから「対話的」の言葉がなくなるのもあっという間でした。理論は、「OECDの調査では日本人はどうやら協働的に対話して知的生産をすることが苦手なようである。今後、諸外国と渡り合うには、苦手なものは強化すべきである」です。結果はご存知の通り、日本人の7割が対話が苦手だと感じている中で行われた対話的学習は、学習不適応の発生率を高めてしまいました。国策はさらに精度の高い検証が求められます。ちなみに、今はその揺り返しで、文科省の諸委員会は、真逆の「個別化」に振り切っています。
「教えない教育をせよ」は、こんな感じです。「今の学校教育は、教えすぎである。教師から生徒への一方的な情報伝達が際立って多く、双方向性がない。であるから、教えない教育に転回することが必要なのだ」です。人類が知識や技術を世代間で伝達することで進化・繁栄してきた本能的な性質は、情報社会ではICTに置き換えて良いのだそうです。いよいよ混迷を極めてまいりました。
「教科をなくしたカリキュラムをせよ」は、こんな感じです。「教科の枠組が、社会では役に立ちそうもない学校知を生み出しているのだ。教科をなくすことで、子どもの思考の自由度が増し、能力を最大限に発揮できるようになるに違いないのだ」です。この論を展開する人は、章立てされた本を読むのより、章なしに散文的に書かれた本の方が知が統合されており自由度が高くて良いと考える人なのかも知れない、、そこに放り込まれた子どもは、知識を体系化するという人間が数千年かけて成就した偉業を自力で行うのだろう。すごい期待を感じるぞ。
こんな感じで、ここ20年の多くの教育理論は、社会的ニーズはある程度補えたとしても、もっとも大事にされるべき子どもたちにとって何が得られて何が得られないのかという視点が非常に弱く、理論としては脆弱で、新規性ばかりが際立ったものばかりでした。まるでブレーンストーミングしたアイデアをそのまま現実に持ち込んだような教育理論が次々に生まれ、消えていったのがこの20年でした。メディア論的には、こうしたイノベーティブなアイデアが生まれるのは良いのですが、リアルな教育の場では学習主体としての子どもが振り回されてしまいかねません。
さらに、憂慮すべきことは、この理論的な脆弱性だけではありません。
共通点の2つ目は、それらがすべてソーシャル・ニーズから出発したものであるということです。2000年までの教育理論の多くは様々な課題もありましたが、基本的には子どもの現状やニーズから出発するものであって、その理論を検討するには子どもについての統計データが根拠となっていました。しかしながら、2000年以降の理論は、ほぼ全てと言っていいほどソーシャル・ニーズから出発しています。
その社会的ニーズは、多くの場合「未来」という言葉によってリデザインされています。「未来」を掲げることで理論が根拠をもって設計されているように受け取られるのです。この「未来」による根拠づけの認知フレームは、実は、設計された理論の側にではなく、受取手の側にある認知フレームが働いているものです。
さて、この時に使われた「未来」とは何なのでしょう。例えば、未来とは西暦何年を指すのでしょう。何の分野の何の未来を指すのでしょう。誰の未来を指すのでしょう。最善の未来とは何を指すのでしょう。最悪の未来とは何を指すのでしょう。その未来で成し遂げられるべき目標は何なのでしょう。誰にとって良い未来となるべきなのでしょう。
これらの問いについて、明瞭な答えは当然ありません。それで良いと思います。問題は、これらの問いを考えることさえなく、「未来」という概念が理論を根拠立てる際に用いられていることです。
心理学者のユングの表現を借りれば、「未来」は「夢」だと言えます。人が「未来」を思い描くとき、そこにはその人の無意識が投影されています。「より良い未来のために」と考えるとき、その未来は無意識レベルでの世界認知が反映されていて、思考にフレームを与え、スキーマを定義しています。当然ながら、未来は現時点では存在していないのであり、作られたヴィジョンです。
この無意識の投影である「未来」から現実を決定するというマクロな思考フレームが学校教育の内容を決定するということには、注意深くあるべきだとぼくは考えています。
というは、端的に言うと「過去は不満を生む」のと同様に「未来は不安を生む」からです。
「未来」のヴィジョンを集団で共有するとき、背景には集団内で共有される集合的無意識があります。その未来に起こりうる様々な問題は、もちろん現在は存在しない問題であるので、夢あるいは空想を超えるものではありません。しかし、その問題が実際に存在するかのように思わせる働きが集合的無意識にはあります。その未来をより良くするための教育を考えるとき、それを考える人々は集合的無意識を共有していて、そのフレーム上で思考のスキーマを働かせていることになります。
そのため、未来ベースの教育は、集合的無意識の作り出した不安に基づいてしまうことになります。つまり、未来の必要性から現在の教育をデザインしようとすることは、集合的無意識によって生み出された夢の中の不安を問題解決するためのデザインをしていることと同義となります。そこに子どもの「今」は存在せず、教育をデザインする世代の共通バイアスに基づいた集合的無意識が広がっているのみということになります。
それを象徴する言葉が2000年頃から用いられるようになった「予想できない未来」という言葉です。人類の歴史が始まった時から、今も昔も未来は誰にも予想できません。ですが、21世紀には特別に予想できない未来があるという誤信念が集合的に生み出されました。この「予想できなさ」は、まさに不安そのものであり、様々な思考のスキーマとして浸透していきました。
未来ベースの教育理論は、このような集合的不安に基づいている側面があるため、人々のコンセンサスを得るのにエビデンスを必要としませんでした。
ですから、もしそれが集合的な不安を解消しうるアイデアでありさえするならば、答えのない問いを考えさせることは当然良いことであり、対話的な学びをさせることは当然良いことであり、教えない教育をすることは当然良いことであり、家庭学習で学び、学校では復習をさせることは当然良いことであり、教科をなくしたカリキュラムをすることは当然良いことになります。それを説明するのに、エビデンスは一切必要なく、必要なのは集合的なバイアスとスキーマの共有のみになります。
さて、学校では、どの程度「未来ベース」でどの程度「今、ここ」に基づいた教育が行われるのでしょう。
例に、図工や美術における描画をもとに考えてみましょう。学校では、子どもは何のために絵を描いているのでしょうか。教師は、きっと子どもに使わせたい技法や工夫の方法を意識しているでしょう。それがなければ教育にはなりません。
ですが、もし「将来的により良い絵を描けるようになるために、この段階ではこのような技法を使って絵を描けるようになる必要がある」と考えて、技法や工夫の方法を教えているとしたらどうでしょう。あるいは、「展覧会で保護者が見た時に学校で指導がされていないと思われないように、指導したことが表現されるような絵を描かせよう」と考えていたらどうでしょう。
これでは、これまでに述べてきたように、未来という無意識がつくり出した不安から指導計画を立てていることになってしまいます。目の前にいる子どもにとって、どのような描画の技術を身に付けることが表現力を高めることにつながるのかといったような子どもの「今」がなおざりにされています。
残念なことに、このような考え方は、学校の中にも外にも多くあります。子どもの「今」から目をそらさないことに油断してしまうと、どんな大人でもこのような考え方に陥ってしまいます。したがって、子どもが「今、ここ」で満たしたい状態に常に焦点を当てておくことが教育者に必要なことであるということになります。
ところで、近年、子どもの精神病症状が増え続けています。しかも、それまで学校教育にうまく適応していた子が、突然精神病症状を発症するケースが顕著に多くなりました。
そのような子どもたちの心理支援に関わってきた中で感じているのは、彼らが子どもベースではない期待、つまり、社会的な期待に報いることへの限界を感じているということです。彼らは、周囲の様々な人々から過去と未来に目を向けることを学び、それを追求し、「今、ここ」から自我が切り離された状態であることを様々な投影によって伝えてきます。
様々な子どもと接する中で、そのような子どもたちの症状を緩和させるために必要となる共通条件も見えてきました。それは、まぎれもなく「今、ここ」に戻してあげることです。
それは、今ただ描きたいものの絵を何のためでもなく描かさせあげることであり、今ただ楽しむために遊ばせてあげることであり、今ただ話したいことを聞いてあげることであり、今ただそこにいさせてあげることです。それは、つまり、究極的には「することモード」(doing mode)から「あることモード」(being mode)へと方向づけてあげることです。
もちろん、それは、一日中ただそこに存在しているだけで良いということを意味するのではありません。よく「生きているだけで十分だよ」という言葉を目にしますが、この言葉はその人の価値を生きているということ以外はすべて否定していると誤解されやすいので、時としてナイフにもなりかねない言葉です。
「あることモード」(being mode)とはそのようなことではなく、「ただそこにいるだけの時間をもつことがあなたには許されている」という気持ちにさせてあげることを意味します。その上で、一日の中で一回でも「今、ここ」に完全に引き戻してあげることで、子どもたちには改善が見られます。
子どもたちは、「今、ここ」にあることを求めています。昔、子どもだった時の良い思い出を思い出してみてください。その思い出は、「今、ここ」を体験している記憶ではないでしょうか。