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あえて「対話的で深い学び」を批判的に考察してみる。

「対話」「コミュニケーション・スキル」の時代っていつから?

「対話」や「コミュニケーション・スキル」が、重要なスキルとして考えられるようになったのはいつからでしょう。

論文のキーワード検索をかけてみると、特に2000年代に入ってから「対話」「コミュニケーション」というキーワードが頻出するようになるので、この20年くらいのことだろうと思われます。

今、どこに行っても「対話的活動」の価値を疑う場はなく、当たり前に必要なものとして価値づけられています。研修に行けば、必ず4~5人程度のグループでの対話活動があるし、教育関連の書籍を開けばあちこちに対話によって深い学びを生み出す方法について書かれています。2020年から実施される新学習指導要領に「主体的・対話的で深い学び」が記載されたことは言うまでもありません。

そんな今だからこそ、無条件の当たり前を見直す意図で、時代のタブーとさえ思えるのですが、対話的な学びの価値をあえて批判的に考えようと思います。

時流に乗り遅れているかも・・・

実は、ぼくは、この時流に少し違和感を感じていたりします。なぜかというと、ぼく自身が、何かを深く思考したいと思ったときに、むしろ一人で内省的な思考をしたいと思う性分だからです。知りたいこと、学びたいことがあると、図書館か書店かAmazonで本を選び、その本を読みながら考えたことをPCやスマホに入力していきます。一人で静かにマイペースで学ぶことが好きなのです。

そんなぼくは、研修などでグループ対話をしていても、他の人の意見を聞いている内に本当に伝えたかったことを言い損ねてしまったり、他の人と真反対の意見をもっていても少しベールで覆って相手が不快に思わないようにアレンジして話してしまったりします。そんなときには、円滑なコミュニケーションをとるための労力を、課題を内省的に深く考えることに使えたら良いのに・・・などと思ってしまうのです。

かつて所属していた日本認知科学会で、研究対象としていた学習の認知発達理論に加えて認知言語学にも関心を持つようになったのも、グループ対話による学習が本当に認知を発達させるのかを知りたかったからでした。学会の認知言語学の権威にお聞きしても、認知言語学の先行研究には、対話がクリエイティビティを誘発するという理論はないということを知り、むしろ安心したりしました。

心理学ではどうかというと、過去の論文に、対話による思考が個人思考に対して創造性を誘発しやすいという有意差を示した心理実験結果はやはり見たことがありません。それどころか、心理学では、「集団思考」という用語は、集団凝集性が高い場合に起こりやすくなる「集団による意思決定プロセスとその結論が、個人で行う場合より、マイナスに作用することで非合理な結論になる傾向」を意味する用語として用いられます。

心理学では、個人で行う思考と比べて、集団での思考は様々なバイアス(偏り)がかかる可能性をもつと捉えます。また、集団で行う思考のリスクとして、思考が極端になりすぎる「リスキーシフト」や慎重になりすぎる「コーシャスシフト」、メンバーが集団維持(集団の一体感や心地よい雰囲気の維持)にエネルギーを注ぎすぎるあまり、パフォーマンスに十分な注意が向かなくなるために解決の質が低下する「集団浅慮」などに注意が必要となります。

セミナーなどでそんな話をすると「え?対話的な学習に疑問を持つなんて信じられない!勉強が足りないんじゃないの?」という反応が大概得られます(泣)これじゃもうイデオロギーです(涙)

でも、きっと今、学校で学んでいる内向型の学習を好む子どもたちも同様のプレッシャーを感じているはずです。これは何とかしてあげなければいけません。

内向型人間の味方現る。

ぼくのような内向型の学習を好む人の代弁者がいます。著書『内向型人間の時代』で知られるアメリカの弁護士・著作家のスーザン・ケイン氏です。

スーザン・ケイン氏は、学校や会社で「外向的であること」が価値あることとされていることに反論しています。このプレゼンを聞いて、無理してグループ対話で学ぶ必要はないんだと安心する人も多いのではないでしょうか。

スーザン・ケイン氏はTed talkでこう語ります。「みんな1人になって集団の力学による歪みを受けずに自分独自のアイデアを考え出して、それから集まってほどよく調整された環境で話し合う方がずっと良いのです」みらいびらきLabo.がセミナーの学習デザインをするときに大切にしてきたことと同じで、なんだか嬉しくなりました。この考え方は、デイヴィッド・ケリーやティム・ブラウンの提唱するクリエイティビティを最大化するための「デザイン思考」で非常に重要視されていますね。

きっとかつて心理学者ユングが内向性・外向性をパーソナリティーの基本的な類型と考えたときには、どちらが価値があるとかないとかいうものではなかったはず。ですが、時代の流れと共に、社会的な影響、とりわけビジネス界からの影響により外向的であることに価値があると考えられるようになり、現在の「対話的=クリエイティブ」という見方になっていったのだと考えられます。

ぼくたち大人は、今一度、ビジネス界で生きるための教育から、それぞれの子どものもつ潜在的な可能性やクリエイティビティを伸ばしていく教育へとシフトチェンジする必要があると思うのです。

日本人は対話が苦手?

世の中にぼくのように「対話的な学び苦手群」の人がどのくらいいるのか興味をもちました。そこで、過去の調査を紐解いてみると、総務省がだいぶ前に行った調査で、コミュニケーションに苦手意識をもっている日本人の数がおよそ7割だという調査結果がありました。もう少し最近の民間調査でも同様でおよそ7割です。その数字を見ると、ぼくと同じような「対話的な学び苦手群」の人は意外と多いのかなという気がして、心強く思ってしまったりします。

もし自分が、多くの学びが対話で行われている現在の学校の生徒だったら、どれくらい対話の中でパフォーマンスできるだろうか・・・。全く自信がありません。そう考えると、「対話的な学び苦手群」の仲間である子どもたちのためにしなければいけないサポートがまだまだたくさんあるということに気づきます。特に、ADHD傾向の子どもに多い、聴覚よりも視覚優位の認知特性をもつ子どもに対してはなおさらです。対話という音声言語中心の言語環境下で、視覚優位の認知特性をもつ子どもに合ったインクルーシブな学習スタイルをどう保障するのか、教育者は考える必要があります。

「対話」の時代であるからと、すべての子どもに1つの学習スタイルを課すのではなく、それぞれの子どものパーソナリティに合った学習スタイルを尊重していくということも大切にしたいと思うのでした。時代がほんの少しニュートラルになって、対話的な学習が苦手な子どもたちに優しくなると良いなと思うのです。
2020年、文科省が日本教育史上初めて全児童生徒一律に学習方法を規定した「主体的・対話的で深い学び」本格的に始まります。

(佐藤裕基)

2 thought on “あえて「対話的で深い学び」を批判的に考察してみる。”

  1. 川村孝樹 より:

    先日のHacksセミナーで気づいたんだけど,自分が学習者目線になったとき,他の参加者がどんなことを書いているのかがフツーに気になるもんなんだなと。一人が大好きな自分ではあるけれど,「見たい知りたい」プラス「自分のも見てほしい知ってほしい」という感情はわりと自然に起きた。いわゆる学校の言う「対話」って,何か自分の外側で行われたりベクトルが外側に向かうイメージだけど,実は人って,「見たい知りたい」というごく原始的な感情のもと,人からにせよメディアからにせよ,常に他者の考えにふれながら,無意識に自分の考えを確かにしたり更新したりしているのかなと。そんなことは毎日連続して起きているごく自然なことなのに,それを恣意的に引き出そうとして非人間的な行為にしちゃっているのが今の学校なのかもしれない。もともと人間的でごく自然的なその営みをあえて「対話」という言葉を使って表現するなら,「他者を媒介とした自己内対話」みたいなことなのかもしれないですね。

    1. m-lab より:

      いつも見事な読解力と表現力ですね。川村さん、本書くべきです!
      この記事は、社会的な要素をできるだけ取り込まず、Human-centered-approachで書くように専念しました。まだまとまりきらず、毎日加筆してます。なんにしろ、学校や社会が子どもになるべき姿を求めてばかりでなく、子どもに優しく、まさにchildren-centeredになると良いなぁと思いますね。二十数年前は教育の目的は人格の完成であるなんて大学で習ったけど、今や優秀なビジネスパーソンになるためのスキルを学ぶ学校教育になりつつある感じがしてます。

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