Menu
0 Comments

第1回プレイ&アーツ・スタディのレポート

6月21日(日)第1回プレイ&アーツ・スタディを開催しました。今回は、アートセラピーのブックレビューと「コラージュ療法」についての最新論文の紹介,「コラージュ療法」体験をして多業種支援者のみんなで学びました。

会は、恒例のブルース・ジャム・セッションによる音楽セラピーから始まりました。NPOスタッフのギター伴奏に合わせて、参加者が持ち回りでキーボードをアドリブで弾きます。シールの付いた鍵盤を適当に弾けば、アドリブプレイができるという仕組みです。「頼むからアドリブさせるのはやめて!」という声もちらほら聞こえますが、今後も引き続きやっていくことでしょう。(笑)

【いつものやつ】

あ、別に意地悪してる訳じゃないですよ。アドリブ表現は、表現方法としては心理的な負担は大きいものになります。アドリブ表現をしてみることで、自分の表現を妨げているストッパーを自信で知ることができます。また、そんな心理的負担の中で演奏したときに、何をモチベーションにして演奏するという行動を起こしたのか(もちろんそこには外からのプレッシャーもあるわけですが)知ることができます。自分自身の創造性の発現について、自分自身で知っているということは、様々なストレス場面での問題解決のための「自分マニュアル」を持つことになります。それを大切にしたいので、これからもやっていきまーす。ごめんなさいねー。

さてと。前半のブックレービューは、『芸術と心理療法 -創造と実演から表現アートセラピーへ-』ショーン・マクニフ著,小野京子訳,2010,誠信書房をレビューしました。アート表現を心理療法として活用するとき、大事なのは表現のモチベーションだけに着目するのではなく、表現を妨げるものにも目を向ける必要があるということをマクニフは訴えていました。

それは、フロイトが防衛機制を手がかりにしていたことと関係がありそうです。ですが、その関係を言葉にして表現するのは、アートセラピーの考え方とは何となく相容れない感じがしています。解釈を与えることは、非言語的というアートセラピーのよさを失わせてしまうことになるように思うからです。

ところで、世の中はというと、最近は「体験」から「ファシリテーション」へ、そして「対話」の時代へと移りましたね。「対話」は、もともと普通に行われていたにも関わらず、これまでにはなかった特別な価値を身にまとったように扱われいて、一気に「体験重視社会」から「言語重視社会」へと変わってきています。この間など、「今のは対話だ。」「いや、今のは対話でなく議論だ。」などと真面目に話し合っている人たちがいて、苦笑してしまいました。また、教師は「体験だけの学習」という表現を皮肉的に用いるようになりました。対話だけの学びよりは何倍も価値があると思うのてすけど。何にしろ、私のような言語コミュニケーションに苦手意識をもつ人間には、大変生きづらい社会的風土となったものです。

その裏側で、体験の希薄化・無価値化は加速度的に進んでいます。体験をさせることよりも言語的に思考させることが重視され、ロジカルな言語ゲームのスキルを磨くことに一生懸命であるようにさえ見えます。ビジネスの世界で少し前に流行った思考法のロジカルシンキングでさえもすっかり淘汰されて、対話スキルが学校の授業、ネットでの遊び、書籍名にも採用されています。哲学対話や対話的学習など、対話的であれば売れる時代の到来です。まさに「対話市場」の誕生です。YouTubeで流行っている動画も少し前の「〇〇してみた」系から、575オンラインに例えられるような言語ゲーム系へと変化していることから変化を感じている方も多いのではないでしょうか。

対話市場では、うまく言語表現できる人が評価されます。深く物事を考えていることを上手に表現できた人が評価される価値観が基礎にあります。「上手にできる」よりも「上手に表現できる」が重要とされます。また、人が思いつかないアイデアを思いついた者勝ちの世界でもあります。実行できるかどうかに責任を持つ必要はありません。実行するのはどこかの誰かで良しとされます。言語世界という安全基地の中で、言葉が優れてれば拍手を浴びるのです。だから、安全な「哲学対話」な訳です。

困ったことには、そのような言語世界という安全基地を出たとき、ぼくたちは、少しでも危険なストレスのある状況で自己を表現することに極端な抵抗を感じるようになってきています。この安全基地を支えるのは、「対話の場面では相手の言っていることを決して否定してはいけません。すべて共感的に聞きましょう」という不自然な安全ルールです。この安全ルールは、参加者に、人が不快に思うような本音は決して発言してはいけませんという含意を持たせます。このような安全ルール下で対話学習を積み重ねた後、言語ゲームの世界を出てリアルな利害世界に出たときに、平気で人を傷つける言葉の行き交う社会を生み出していはしないかという懸念があります。

今、心理臨床の場で芸術療法が必要となっているのは、このような「超言語社会」の歪みからではないかと、ぼくは思っています。フォーカシングやマインドフルネスも言語より体感覚を重視する心理療法というところでは、同じ文脈にありますね。

非言語的なアート表現によるセルフエスティームの獲得は、現代を生きるぼくたちに必要なカタルシスです。

で、今回やったのが、「コラージュ療法」の支援者自身によるセルフ・アートセラピー体験です。

「コラージュ療法」というのは、雑誌を用意して、そこから気になる写真などを切り抜き、白い紙に貼っていくというとても単純なアートセラピーです。

【参加者のコラージュ①】
【参加者のコラージュ②】

日本では、これまで、箱庭療法が小児科や小児心療の臨床で用いられてきましたが、「コラージュ療法」は持ち歩ける箱庭療法と言えます。選ぶ→配置する→意味づける→俯瞰するといった心の作用は、箱庭療法ととても似ていますね。

今回は、まるでグループセラピーのようになりました。和気藹々と取り組みましたが、作成の段になると、まさに「健全な自閉状態」になり、みんな夢中になって取り組みました。

【コラージュのコラージュ?】

最後に感想を聞いても良かったのかもしれませんが、しませんでした。最後まで非言語を貫きたかったのです。感じたことを言葉にしてしまうことで、せっかく身体化された感覚を言葉によって自分の外へ外部化することを避けたいと思いました。

アートセラピーでは、得たことは体が持ち帰ってくれると信じているからです。

(文責 佐藤裕基)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。